⑦→⑧ わずか右振り。出来れば引きながら少しでも右に出せれば。
そこそこ強く撞きますので引き過ぎも嫌だなと加減したら引き足らず。
⑧→⑨ cutするかバンクか。バンクに行きましたがドソッポです。
私はバンクはシステムで撞きます。動画にも数字を入れましたが、どう見ても⑧番は”25”くらいの場所なんですが、”15”と読み間違えて厚く狙ってしまいます。
惜しくもなんともないので、おかしい・・・と見たら数え間違えてました。
⑦番からやり直しです。最初からそうやれやって感じ。
①→②→③→⑤とほぼ思いどうりです。
⑤→⑥ 引き。⑥は左上コーナーに行こうと、ブリッジを組んでいる周辺まで引くつもりでしたが、引き過ぎ。
⑥→⑦ 押し1クッション・・・いまいち弱い。
⑦→⑨ 力加減を重視してバンク・・・これでも強い。きっと少し左を捻っているせいです。
⑨ 何とか入れてOK
追記)
私的には、「両者の意見とも納得できる部分がある。」と言ったところ。
送る側にしてみれば、自分たちが直接出かけて行って復興支援も出来ない、また金銭での支援も出来ないが、せめて「亡くなった方々のご冥福や、復興を祈っています」という気持ちだけでも送りたい・・という事なのでしょう。
確かに現場にしてみれば、折り鶴を多量にもらったところで何の役にも立たずに、下手に気持ちがこもったものであるが故に処分にも困る。
このクソ大変な時に余計な事をしてくれるなと言ったところでしょうか。
しかし、人の感じ方と言うのは一つではありません。
「こんな物」と思う人がいる一方で、沢山の人の気持ちを鶴という形であらわされることで励まされる人もいるでしょう。
私としては、「送りたければ送れば良いんじゃない?」って感じです。
ただし、現場でどのように扱われるかは現場に任せるべきで、「せっかくの気持ちを反故にしやがって」と言うのもちょっとね。皆でこうしましょうと決めるべきものでもない様な気がします。
日本人特有の事なのかどうかは分かりませんが「千人針」とか「千羽鶴」とか、何しろ辛い事だとか大変な事をやり遂げれば何とか状況が良くなるような考えってありませんか?
「こんなに頑張ったんだから報われるはず」と言う。
しかし、やっている事はその「報われて欲しい事」「良い方向に向かって欲しい物事」自体とは何の関係もない訳です。
それは結局、良い方向に向かって欲しいという”お祈り”とか”願掛け”なんですよね。
”お祈り”であれば、本来は祈っている側だけの問題のはずですが、どうしても折り鶴と言う、物としての”形”が出来てしまう。
そうなると、そのお祈りの結果として出来た鶴を、対象者に送りたくなってしまうんでしょうね。無意識ながら「私はこんなにもあなた方の事を思っていますよ」と伝えたい。
その気持ちを、狂気として切り捨ててしまうかどうかは・・・受け取る側の感覚です。
「鶴を折るなら日本銀行の名が入った福沢諭吉模様の紙で折るとよい」
と言うのは・・・ブラックですな・・。
昔、「同情するなら金をくれ」ってのがありましたが、確かにお金は必要でしょう。
だからと言って「義援金だけ受け取って、気持ちは迷惑」ってのも何だかアレな気がします。