ビリヤードで筋肉痛

ビリヤードにはまった中年男の奮闘記 時々車の事も。

条件はみな同じ

玉撞きをしていて時々耳にする言葉です。

「条件はみな一緒」

私はその通りだと思います。

 

いろんなブログを拝見していますと、

「それはおかしい!条件が一緒であるわけがない」という意見もあるようです。

 

その理由は

1.そもそも人が違うから条件は違う

2.対戦するまでの経過が人によって違う

という事らしく、自分に対してその言葉を課すのは構わないが、人に対して押し付けるべきではないと・・・。

 

?????わけわからん

 

 

あるビリヤード場で初めて会ったAとB二人がたまたま相撞きすることになり

同じ時間、同じ台で、同じ気温と湿度、同じ騒音と込み具合の中で5先をしました。

二人とも初めての店でした。

たまたまその台は多少渋い台でした。

 

Aは最近渋台でもそこそこ撞けるようになりたいと、数か月前からいろんな店に通って渋めの台で練習するように心がけてきました。

Bは渋めの台ばかりじゃストロークが縮こまってしまうからと、のびのび撞けるようにあまり渋台では撞いてきませんでした。

 

さて、たまたま同じような実力であった二人の対戦結果は5-2でAの勝ちでした。

 

Bは言います「ズルいよね。あなたはここ数か月渋台で練習してきたんだろ?俺だって同じ練習をしてきたらきっと勝てたはず」

それに対してAは言います「今日、この台が渋いかどうかは私は知らなかった。二人とも同じ条件で撞いているんだから仕方ないよ。今日は私が勝った。でも明日は分らないね。」

 

皆さんどう思いますか?

Aはズルい?Bはかわいそう?

私はそうは思いません。だって物理的な条件は同じでしょ?その条件でAに勝ちたければA以上にBが渋台に適応していなければいけなかっただけじゃないでしょうか。

そういうのは

”条件は平等だったけど、状況はたまたまAに有利だった”と言うべきです。

 

そもそもスポーツがね、「様々な環境の人が、その与えられた環境の中でそれぞれ努力した結果、出来るだけ同じ条件で力を競う」

そう言うものだと思うのですよ。

もちろん共通のルールでね。

 

例えばスポーツの祭典、オリンピックにて

1.お前はボルトだが、俺は違うから条件が違う。おかしい。

2.お前はあの人にコーチしてもらってズルい。俺はこんな人しかいなかった。

3.お金がなくて安い宿にしか止まれなかったせいで寝不足で負けた。

 

・・・こんなこと言い始めたら、ゲームになりますか?

人種の違い、研鑽した場所、時期、時間、

誰に教わったか、

対戦時の精神状態や体調、最近の練習内容、

そんなものまで”条件”として入れられたらスポーツは成り立たない。

クローン同士で対戦して何か意味があるんだろうか。

 

残念ではあるが、スポーツの環境は公平ではない(多くは経済的に恵まれている方が有利ではある)。

少なくとも、物理的な条件を同じにしなくては”競争”の評価が不可能。

 

でも確かに、経済的理由や技術的な理由で、靴やスイミングウエアが違うとかであればズルイと言いたくなりますな。

(ビリヤードだったら、あなたの方が良いキューやチョークを使っているとかいうのかな。それにしたって自分で選んで慣れ親しんだキューでしょ?)

 

「条件はみな同じ」という言葉は、少なくとも対戦時の"物理的な"環境は一緒ですよと言う意味ですよね。それ以上でも以下でもない。

自分の技術の修練度や精神状態、体調など、そんなものは自己責任じゃ。

「最近はこれこれを重点的に練習していたから・・」

 

しらんがな。

 

 

そもそも今の自分の持っている技術と知識の全てを使って対戦するんですよね?相撞きってそういうものじゃないですか。その時にそれができなきゃ負けるだけです。

それを糧にしてさらに修練するんですよね?

 

Aのホームであって、散々練習した慣れた台であるとか、Aの応援団がたくさんいてBにとっては完全アウェイなんてのは同じ条件ではないのは誰でもわかりますよね。

 

そんな時に普通は「条件はみな同じ」なんて言葉は出てこないと思うんです。

「この次は私のホームでやりましょうか」ですよね。

 

注)「条件が一緒であるわけがない」と言う人の意見を変えようなどという気持ちは一切ありません。

ただ、私はこう思うというだけの事でした。。

 

 

 

撞けばわかるさ

今回、書きたい事の結論を先に。

「決めたら、迷わずに撞け」です。

 

みなさんは自信を持って撞けていますか?

 

「構えなおし」に関しては、両極の意見があります。

1.構えたときに違和感を感じたら、そのまま撞かず、構えなおすべきだ。

2.構えなおす事は、自分に疑いを持つこと。

 

先玉に対して構える時、イメージボール、手玉の走る方向、強さなどをしっかりイメージし、撞点を決めてから構えなさいと言われます。

ただし、実際に構えてみると「自分のイメージと違う」と感じることがあります。

おそらくは立った状態と構えたときの目線の高さの違いによって、見え方が変わってくるためと思われます。(もしくは構える段階で、ずれてしまう)

構えた状態で、頭の位置を上下させてみるだけでも大分イメージが変わりますから。

(高めに構えると玉やラインなどが立体的に見え、低く構えると平面的に見えますよね)

その「見え方の違い」や「イメージの違い」「違和感」を感じること自体が正しいのか?

もしくは、構えていく上で自分の感じ方が変化していくだけで、実はすべて正しく、違和感を感じることが間違いなのかもしれません。

 

人情としては、「正しいと感じた状態」で納得してショットしたい。

なのでどうしても違和感を感じたときにそのまま微調整をしてしまう。

その微調整が正解であったか間違いであったかの検証もまた難しい。

そもそも気持ちの中の”微調整”であって、実際には何も変わっていないなんて事は良くある事だと思います。

構えに入ったまま微調整をするくらいなら、構えなおしたほうが良さそうだが、

「構えなおす」事は、現在の自分の感覚を疑ってかかる事で、メンタル的にはマイナスであると。(アップルトン)

確かに、一度自分を疑い始め、構えなおした結果ミスったとしたら、

何を信じればよいのかわからなくなって泥沼にはまって行きそう・・・。

 

自分の中の違和感が正しいのか間違いなのかの検証はゲームの中では不可能です。

練習の場で、同じ配置を繰り返し繰り返し構えなおし、撞きなおして比較しなければわかりません。

そうやって自分の感覚を磨き上げて行き、最終的にそれを信じられる状態に持っていく必要がありそうです。

その自信は、ゲーム中のいくつかのミスで崩壊し、また練習でそれを修復し・・・と

私たちは永遠の苦しみの中でもがくのだ。

 

ただ、理由はわからないが「これは入る」と絶対的な自信があり、まさにそのとおりにゲームが進んでいくことがある。ゾーンに入った状態。

それがあるから私は自分を信じたいと思う。

少なくとも努力は無駄ではなく、いつ発動するかはわからないがちゃんと経験として残っている。

迷った状態で撞いたところで、自分がどのように決めて撞いたかの経験値が上がらない事に。何が成功で、何が失敗だったかはっきりと体と脳に擦りこんでいく必要がある。

 

ならば、迷わずに撞こう。

 

ただ~し、

私に関して言えば、そもそも「ちゃんと狙っていない」疑惑がある。

イメージボールに向かって構え、狙いをつける。

その時に、狙っている気になっているだけで、しっかり確認をしていない事が多々。

狙う時には先玉をにらみつけていますので、手前にあるキューの画像はぼやけています。

キューの中心ラインをイメージボールの中心に合わせればよいわけですが、

何となく合わせているだけで、意識して合わせていないことがあるのですね。

 

それで・・・追加。

 

まずはやるべきことをちゃんとやれ

 

話はそれからだ。